Vol.38 No.4 No.148「地図で見るアフリカ」
〔表紙解説〕
「カタロニア図」(1375年頃、西半分の4葉)、フランス国立図書館蔵、出典:Wikimedia。一葉が高さ約64cm、幅約25cm。
〔付録解説〕
「マラウィの地理」(大地溝帯の国マラウィ)
「カタロニア図」(1375年頃、西半分の4葉)、フランス国立図書館蔵、出典:Wikimedia。一葉が高さ約64cm、幅約25cm。
マリ王国のマンサ・ムーサー王が金(砂金)を手にし、ムスリム(イスラーム教徒の)商人を迎えている。上の石垣状のものはアトラス山脈。
カタロニア図は1375年頃アブラハム・クレスケスにより製作され、アラゴン王ベドロ3世がフランスのシャルル5世に贈った世界図。ポルトラノ海図を原図とし、内陸部はマルコ・ポーロなどによって伝えられた新知見や想像によって描かれている。
カタロニア図は1375年頃アブラハム・クレスケスにより製作され、アラゴン王ベドロ3世がフランスのシャルル5世に贈った世界図。ポルトラノ海図を原図とし、内陸部はマルコ・ポーロなどによって伝えられた新知見や想像によって描かれている。
〔付録解説〕
「マラウィの地理」(大地溝帯の国マラウィ)
マラウィは、アフリカ大陸の南東部に位置する面積約11.8万km2、本州の半分ほどの面積の小さな内陸国である。その暖かい気候からだけではなく、最貧国の一つでありながらもその平和なお国柄や国民性から“The Warm Heart of Africa.”とも呼ばれる。
マラウィの国土は、東西90~161km、南北900kmと南北に細長い形をしている(付録地図)。国土の西部には、先カンブリア時代の岩石で構成される高原が、緩やかな起伏を持って広がる。高原の標高は、大部分が900mから1500mであるが、北部では2000mを超えるところもある。一方、国土の東部には、東アフリカ大地溝帯が南北に縦貫している。まわりの高原から落ち込んだ大地溝帯の北部は、アフリカで3番目に大きな湖であるマラウィ湖によって占められている。
マラウィ湖の湖面は、海抜457mにあり、湖の最大深度が701mであることから、湖底の一部は、海面より低い位置にあることになる。この湖を1859年に発見したDavid Livingstoneは、透明度が高く、湖面が美しくきらめく様子から、この湖を星の湖と呼んだとされている。またマラウィ湖は、多くの淡水魚の固有種が生息する生物多様性が極めて高い湖としても知られている。湖のガラパゴスとも呼ばれ、マラウィ湖を含む国立公園は、世界自然遺産に登録されている。
マラウィは、北東部をタンザニア、西部をザンビア、それ以外の東部と南部をモザンビークと国境を接している。そのうちタンザニアとの間では、植民地時代から国境の位置をめぐる争いが続いてきた。そもそも両国の国境は、一帯の宗主国であったドイツと英国が、19世紀末に交わした条約によってマラウィ湖のタンザニア側の岸に設定された(付録地図)。そこから1世紀を経て、タンザニアは、慣習的な国際法の原則に基づいて境界が湖の中央線であると主張している。この国境をめぐる争いは、しばらく休眠状態にあったが、2012年にマラウィが英国に拠点を置く石油会社に石油と天然ガスの探鉱権を与えたことによって再燃した。さらには、タンザニアがマラウィ湖に観光船を就航させる計画を発表したことに対して、マラウィが強く反発する事態も起きている。なお、モザンビークとの国境は、湖中央に設定されているが、モザンビーク側の湖岸に近い位置にあるムンボ島とドムウェ島は、マラウィの領土になっている。(山縣耕太郎、p.8)
マラウィの国土は、東西90~161km、南北900kmと南北に細長い形をしている(付録地図)。国土の西部には、先カンブリア時代の岩石で構成される高原が、緩やかな起伏を持って広がる。高原の標高は、大部分が900mから1500mであるが、北部では2000mを超えるところもある。一方、国土の東部には、東アフリカ大地溝帯が南北に縦貫している。まわりの高原から落ち込んだ大地溝帯の北部は、アフリカで3番目に大きな湖であるマラウィ湖によって占められている。
マラウィ湖の湖面は、海抜457mにあり、湖の最大深度が701mであることから、湖底の一部は、海面より低い位置にあることになる。この湖を1859年に発見したDavid Livingstoneは、透明度が高く、湖面が美しくきらめく様子から、この湖を星の湖と呼んだとされている。またマラウィ湖は、多くの淡水魚の固有種が生息する生物多様性が極めて高い湖としても知られている。湖のガラパゴスとも呼ばれ、マラウィ湖を含む国立公園は、世界自然遺産に登録されている。
マラウィは、北東部をタンザニア、西部をザンビア、それ以外の東部と南部をモザンビークと国境を接している。そのうちタンザニアとの間では、植民地時代から国境の位置をめぐる争いが続いてきた。そもそも両国の国境は、一帯の宗主国であったドイツと英国が、19世紀末に交わした条約によってマラウィ湖のタンザニア側の岸に設定された(付録地図)。そこから1世紀を経て、タンザニアは、慣習的な国際法の原則に基づいて境界が湖の中央線であると主張している。この国境をめぐる争いは、しばらく休眠状態にあったが、2012年にマラウィが英国に拠点を置く石油会社に石油と天然ガスの探鉱権を与えたことによって再燃した。さらには、タンザニアがマラウィ湖に観光船を就航させる計画を発表したことに対して、マラウィが強く反発する事態も起きている。なお、モザンビークとの国境は、湖中央に設定されているが、モザンビーク側の湖岸に近い位置にあるムンボ島とドムウェ島は、マラウィの領土になっている。(山縣耕太郎、p.8)
付録:ポスター「大地溝帯の国マラウィ」 、冊子「世界の地図情報2018/19」