Vol.38 No.1 No.145「川がつくった日本の地形」
〔表紙解説〕
調布玉川惣繪圖(相沢伴主画、昭和63年、多摩市教育委員会所蔵・部分)
調布玉川惣繪圖(相沢伴主画、昭和63年、多摩市教育委員会所蔵・部分)
「多摩川の新生と絵図の複製」
日本は川の国である。山深く水清く、白流は渓谷美を描き、豪雨いたれば奔流平野にあふれ、洪水治まれば豊水沃野をうるおす。
日本の歴史は、水神の恵みをこう水利史であり、竜神をなだめる水制史でもある。ほどよい規模の河流は、自然と人力の調和を促し、瑞穂の風土、水の辺の文化の母となった。湧水、細谷は古代人を養い、中流支谷は荘園民を育くみ、大川の広野は封建領国を形成し、電源水力、大用水系の開発は近代文明の流れを導いた。
とりわけて玉川はヒューマンスケールの名流、その幽谷から海辺に至る河川美の展開は、古来人々の詩情と絵心を惹きつけて、数々の名作を生み、またその水を懸樋に使う大江戸の繁栄を支えたのである。
この『調布玉川惣繪圖』は、そうした幕末近くの秀作である。青山雲霧の谷間に見えがくれする村里、ゆるく波うつ横山の段上にきわ立つ神社仏閣、玉川上水の陣屋、筏流しや渡船の情緒など、心根やさしい作者の眼ざしを借りて、昔日の俤を偲ぶことができよう。
やがて世も文明開化、明治の末年ともなれば、新橋演芸場の舞台には、大薩摩の新曲が鳴りひびく。
“それ帝都二百余万の民草が、潤ふ水のみなもとは、遠く丹波の山澗におこり、青苔衣を負ひて巌の肩にかかり、白雲帯に似て山の腰を繞る、ひるも日原の影暗く、轟然としてすさまじき、高く御嶽の麓より、和泉中島流れて末は多摩川の、雨に異わる渡り口、晴れて客呼ぶ鮎漁が、鵜縄のさばきおもしろや、きのうの袖も乾しやらで、まだき濡れそふ朝露に、浪も光を打ち寄する、昔恋しき調布は、賤が手業に時ならぬ、河原に雪の白々と、さらす乙女が拍子うた、六所まつりはさまざまあれど、わしが好いた帷子市よ、ずんどはじめは麻布織りて、国へみつぎの余りは誰に、たれに着しょとて絲紡ぐ、ソレソレ晒せ晒せ晒す細布さらさらさっと、晒す細布さらさらさっと、つきぬ流れは多摩川の里”
それからさらに八十年、今もし長唄の作者、永井素岳(1849〜1915)あるいは関戸の文人伴主翁がよみがえり、苦渋にみちた多摩川を臨むとなれば、どのような感慨をいだくであろうか。おそらく、文明の汚染と喧噪にあえぎもだえるその惨状に目をそむけ、深い嘆息をもらすにちがいない。
だが、ようやく茜ぐもが水面にただよい始めるころ、暮れゆく横山の墨絵が、ほのかな月あかりに浮かぶころ、夜もふけて中州にいこう水鳥の、ふと目ざめて一しきり鳴き交わすころ、曙のせせらぎに銀鱗の光るころ、そして燐光が川面一杯に華麗なフィナーレを演出する時、幻の訪問者たちも、ほっと一息つくことであろう。
しかし、多摩川を夜曲の調べのみにとどめておいてはなるまい。その美景を詩情を、再び陽光の世界によみがえらせねばならない。
日本の山河は、いまこそ新しい国際文化のふるさと、不滅の絵巻、永遠の讃歌を創作する場として、再生せねばならない。多摩の水土、玉川の惣画図が、そのモデルとなるよう願ってやまない次第である。
(西川 治 「調布玉川惣繪圖 解説」より転載)
日本は川の国である。山深く水清く、白流は渓谷美を描き、豪雨いたれば奔流平野にあふれ、洪水治まれば豊水沃野をうるおす。
日本の歴史は、水神の恵みをこう水利史であり、竜神をなだめる水制史でもある。ほどよい規模の河流は、自然と人力の調和を促し、瑞穂の風土、水の辺の文化の母となった。湧水、細谷は古代人を養い、中流支谷は荘園民を育くみ、大川の広野は封建領国を形成し、電源水力、大用水系の開発は近代文明の流れを導いた。
とりわけて玉川はヒューマンスケールの名流、その幽谷から海辺に至る河川美の展開は、古来人々の詩情と絵心を惹きつけて、数々の名作を生み、またその水を懸樋に使う大江戸の繁栄を支えたのである。
この『調布玉川惣繪圖』は、そうした幕末近くの秀作である。青山雲霧の谷間に見えがくれする村里、ゆるく波うつ横山の段上にきわ立つ神社仏閣、玉川上水の陣屋、筏流しや渡船の情緒など、心根やさしい作者の眼ざしを借りて、昔日の俤を偲ぶことができよう。
やがて世も文明開化、明治の末年ともなれば、新橋演芸場の舞台には、大薩摩の新曲が鳴りひびく。
“それ帝都二百余万の民草が、潤ふ水のみなもとは、遠く丹波の山澗におこり、青苔衣を負ひて巌の肩にかかり、白雲帯に似て山の腰を繞る、ひるも日原の影暗く、轟然としてすさまじき、高く御嶽の麓より、和泉中島流れて末は多摩川の、雨に異わる渡り口、晴れて客呼ぶ鮎漁が、鵜縄のさばきおもしろや、きのうの袖も乾しやらで、まだき濡れそふ朝露に、浪も光を打ち寄する、昔恋しき調布は、賤が手業に時ならぬ、河原に雪の白々と、さらす乙女が拍子うた、六所まつりはさまざまあれど、わしが好いた帷子市よ、ずんどはじめは麻布織りて、国へみつぎの余りは誰に、たれに着しょとて絲紡ぐ、ソレソレ晒せ晒せ晒す細布さらさらさっと、晒す細布さらさらさっと、つきぬ流れは多摩川の里”
それからさらに八十年、今もし長唄の作者、永井素岳(1849〜1915)あるいは関戸の文人伴主翁がよみがえり、苦渋にみちた多摩川を臨むとなれば、どのような感慨をいだくであろうか。おそらく、文明の汚染と喧噪にあえぎもだえるその惨状に目をそむけ、深い嘆息をもらすにちがいない。
だが、ようやく茜ぐもが水面にただよい始めるころ、暮れゆく横山の墨絵が、ほのかな月あかりに浮かぶころ、夜もふけて中州にいこう水鳥の、ふと目ざめて一しきり鳴き交わすころ、曙のせせらぎに銀鱗の光るころ、そして燐光が川面一杯に華麗なフィナーレを演出する時、幻の訪問者たちも、ほっと一息つくことであろう。
しかし、多摩川を夜曲の調べのみにとどめておいてはなるまい。その美景を詩情を、再び陽光の世界によみがえらせねばならない。
日本の山河は、いまこそ新しい国際文化のふるさと、不滅の絵巻、永遠の讃歌を創作する場として、再生せねばならない。多摩の水土、玉川の惣画図が、そのモデルとなるよう願ってやまない次第である。
(西川 治 「調布玉川惣繪圖 解説」より転載)
付録 「TOPOGRAPHIC MAP OF THE NIAGARA GORGE」