Vol.37 No.3 通巻1434号 特集:伊能忠敬が遺したもの
〔表紙解説〕
国立国会図書館蔵「大日本沿海輿地全図」43枚のうち第100図。甲斐・駿河
国立国会図書館蔵「大日本沿海輿地全図」43枚のうち第100図。甲斐・駿河
伊能忠敬らによる「大日本沿海輿地全図」は測量のデータ集である「輿地実測録」とあわせ「伊能図」と呼ばれる。
正本は大図214枚、中図8枚、小図3枚で、蝦夷地の未測量部分を間宮林蔵の測量データで補完した日本全域(琉球を除く)の地図である。「輿地実測録」は14冊で、「地図接成便覧」1枚が付く。忠敬は文政元年(1818)に没していたが、文政4(1821)年に幕府に正本が上呈された際に、それまで伏せられていた忠敬の死去が公表され、江戸大広間での展観は高橋景保、忠敬の嫡孫忠誨らの手で行われたといわれる。本図は浮世絵のような版画ではないため、上程された正本と伊能家の副本のみがオリジナルであった。
国立国会図書館によれば「この図は明治期の模写図で、平成9年気象庁より寄贈されたもの。料紙は楮紙をはり合わせ、雲母びきの紙で裏打ちしたものを使用する。模写は明治6年頃、工部省測量司が行ったものと推定される。測量司が「謄写」のため明治5年末に「大日本沿海輿地全図」の副本を佐原の伊能家から借りた(のちに献納された)ことは記録に残っている。この模写図が測量司の業務を引き継いだ内務省地理局(設置当初は地理寮)に伝わり、地理局内の組織として誕生した東京気象台、中央気象台を経て気象庁に受け継がれてきたものと考えられる。実際、気象庁には地理局の印記をもつ資料の一部が伝えられている。当図には印記はないが「第95 信濃 上野」図幅には当時の地理局員大川(通久)と思われる名を含む付箋が残っており、地理局旧蔵資料であることがほぼ確実である。「大日本沿海輿地全図」のうち幕府に上呈された正本は、明治6年の皇居火災により、また、当図の原図である伊能家旧蔵の副本も東京帝国大学で保管中関東大震災の火災で、いずれも焼失したため、当図などの転写図が辛うじてその姿を現代に伝えている。」という。
(主解説は「国立国会図書館ディジタル貴重書展特別展示」出展目録を抜粋・追加。文章の追加にあたっては、伊能忠敬e資料館「伊能図入門」の伊能図解説「伊能図の内容と構成」(鈴木純子氏)の解説を参考とさせていただいた。編集部)
正本は大図214枚、中図8枚、小図3枚で、蝦夷地の未測量部分を間宮林蔵の測量データで補完した日本全域(琉球を除く)の地図である。「輿地実測録」は14冊で、「地図接成便覧」1枚が付く。忠敬は文政元年(1818)に没していたが、文政4(1821)年に幕府に正本が上呈された際に、それまで伏せられていた忠敬の死去が公表され、江戸大広間での展観は高橋景保、忠敬の嫡孫忠誨らの手で行われたといわれる。本図は浮世絵のような版画ではないため、上程された正本と伊能家の副本のみがオリジナルであった。
国立国会図書館によれば「この図は明治期の模写図で、平成9年気象庁より寄贈されたもの。料紙は楮紙をはり合わせ、雲母びきの紙で裏打ちしたものを使用する。模写は明治6年頃、工部省測量司が行ったものと推定される。測量司が「謄写」のため明治5年末に「大日本沿海輿地全図」の副本を佐原の伊能家から借りた(のちに献納された)ことは記録に残っている。この模写図が測量司の業務を引き継いだ内務省地理局(設置当初は地理寮)に伝わり、地理局内の組織として誕生した東京気象台、中央気象台を経て気象庁に受け継がれてきたものと考えられる。実際、気象庁には地理局の印記をもつ資料の一部が伝えられている。当図には印記はないが「第95 信濃 上野」図幅には当時の地理局員大川(通久)と思われる名を含む付箋が残っており、地理局旧蔵資料であることがほぼ確実である。「大日本沿海輿地全図」のうち幕府に上呈された正本は、明治6年の皇居火災により、また、当図の原図である伊能家旧蔵の副本も東京帝国大学で保管中関東大震災の火災で、いずれも焼失したため、当図などの転写図が辛うじてその姿を現代に伝えている。」という。
(主解説は「国立国会図書館ディジタル貴重書展特別展示」出展目録を抜粋・追加。文章の追加にあたっては、伊能忠敬e資料館「伊能図入門」の伊能図解説「伊能図の内容と構成」(鈴木純子氏)の解説を参考とさせていただいた。編集部)
付録:少年読本 伊能忠敬